関西在住のIchiです。
5月の京都はまだまだ涼しいと思っていましたが、とても暑い一日でした。
京都の夏の暑さは有名ですが、5月にこんなに暑くなるとはちょっと予想していなくて、疲れましたが絵とか、お寺はいつも心を元気にしてくれます。
近くにいながら一度も訪れたことのない、京都国立博物館、三十三間堂に行ってみました。
すぐそばに養源院があり、このお寺もまた興味深い歴史がありました。
阪急河原町駅から京阪電車四条駅まで歩きました。
阪急河原町から京阪四条駅まであるくと夏の京都を感じます。
鴨川のほとりは床がでています。
京阪電車四条から、大阪方面行特急で一駅でした。
七条駅を出て東へ歩いて7,8分ぐらいで京都国立博物館につきます。
京都国立博物館について
初めて訪れたそこは、まるでヨーロッパにきたかのような錯覚をおぼえました。
ここは京都だろう!?
京都国立博物館の開館は明治30年(1897年)
明治19年(1886)に宮内省(くないしょう)の施設となり、寺院や神社が伝えてきた絵画、彫刻などの美術工芸品を鑑賞するための美術博物館として再出発した博物館であるとのこと。
今年は京都国立博物館開館、120年!ということです。
日本の建築界の草分けの一人であった、宮内省内匠寮(たくみりょう)の技師であった片山東熊(かたやまとうくま)は来日したイギリス人建築家コンドルの教え子です。
そして、ヨーロッパ各国を歴訪して宮廷建築を学んだという片山東熊によってこのような、ヨーロッパ風の建物がつくられたんですね。
ルーブル宮が造られたフランス17世紀の華麗なバロック様式を取入れながら、いかにも日本的な叙情性や繊細な感覚が表現され、東山の自然に調和した美しい景観を形成しているとの公式サイトの情報をいただきながらみてみるといかにもという感じです。
今は入り口はここの門ではなく、ここが出口となっていました。
出る前に出口を背にして全体をうつしてみました。
全体の写真
出口に向かって石段を少し降りる傾斜になっています。
そこから京都タワーがみえました。
なんとも、京都のヨーロッパという感じを楽しめる建物、場所です。
今は旧建物の中は閉鎖されています。
海北友松(かいほうゆうしょう)展
海北友松展は新しい近代的な新しい建物の中で開催されていました。
武家に生まれて、桃山を生きた。
この絵師ただものではない!
とのふれこみで、行きたいと思いながら結局最終日ぎりぎりでした。
この展覧会では十章に分けて友松の生涯をたどるということで紹介されていました。
かなり見ごたえのある展示でした。
海北友松とは
海北友松(かいほうゆうしょう)1533-1615
桃山画壇の巨匠。
近江浅井家の家臣の家に生まれ、東福寺で若年をすごす。
武士の家にうまれながら、主家や兄が信長に滅ぼされ、自分は絵の道に進む。
狩野派の門を敲き画を学ぶ。
狩野派から独立してからの60歳以降の作品が現在のこっている主なものだということです。
友松は春日野局の父(斎藤利三)と親友だったとか、絵師としての生き方をしながら、心のどこかには武士の気概を持っていた絵師だったようです。
海北友松の作品
好きだった絵は
「柏に猿」
アメリカのサンフランシスコアジア美術館蔵、の絵です。
猿がなんとも言えずふわふわと遊ぶすがたがユニークで、力強いタッチの龍の絵などとはまた違ってとても魅力的でした。
友松の初期の作品だといわれていて、作風がちょっとちがうのですが、とてもいいなーと思いました。
京都・建仁寺の龍の画(重要文化財)
京都・北野天満宮の雲龍図屏風(重要文化財)
浜松図屏風・宮内庁三の丸尚蔵館
友松の到達点!最晩年の傑作60ねんぶりに里帰り♪「月下渓流図屏風」
昭和33年にアメリカの美術館が所蔵していらい、戻ることがなかった幻の最高傑作と言われています。
早春の夜明けのころのおぼろ月がなんとも優雅に消え入るように柔らかく描かれています。
絵が詩(うた)になっているような感じを見る人に与えている、なんとも素晴らしい!絵でした。
ユーモラスな牛の画もありました。
たくさんの作品をみてきました。
自筆の領収証も展示されていました。
絵師による領収証が残っているのはめずらしとか。
三十三間堂見どころ
有名な1000体の観音立像は見事でした。
中央の巨像(中尊)を中心に左右に500体(重要文化財)がご本尊なのです。
正式には、「十一面千手千眼観世音」というそうです。
ここの像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現されています。
外のお庭もよかったですよ。
雲がたなびいていました。
夜泣泉と夜泣き封じのお地蔵さまがあります。
三十三間堂の僧が、夢にお告げにより発見した霊泉で、古今著聞集にも登場します。
いつも冷たく、飲んでもお腹を痛めない、そのうえ、美味しく枯れる事のな水だとのこと。
夜中に水が湧き出る音が、すすり泣きに似ている事から、夜泣泉と名づけられたそうです。
養源院について
全部撮ったと思ったら切れてますね。
なんて書いてあるんでしょう?
それは血天井と書いてあったのです。
ちょっと怖いですね。
地天井って…
養源院の由緒
これは中にはいると、説明付きで案内してもらえます。
10人から20人ぐらいが一組になって、一人の年配の闊達な女性が詳しく説明してくれるのです。
豊臣秀吉の側室、淀殿(茶々)が父浅井長政(あざいながまさ)の追善のため、長政の21回忌に秀吉に願って養源院を建立し、長政の従弟で叡山の僧、成伯法印を開山とし、長政の院号をもって寺号ととした。(文禄3年5月、1594ねん)
その後火災で焼失。
元和7年(1921)徳川秀忠が夫人宗源院殿(ごう=江)の願いにより伏見城の遺構を用いて再建した。
ということですが、
戦国時代の武将浅井長政と正室市との間に生まれた3人の娘、茶々、初、江。
3人の娘たちは、豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となり戦国の女性として歴史を彩った姉妹で有名ですね。
参道(境内)は若葉でとても目に優しく、木々の優しいエネルギーを感じました。
養源院見どころ
安土桃山・江戸期には狩野派の画家が寺院やお城の襖絵を描くことが多く、養源院にも狩野山楽が描いた襖絵が残っていて、国立博物館でも松友の襖絵をみてきましたが、彼らの活躍(才能発揮)の場はこういうところだったのですね。
絵葉書をもらえます。
豚ですか?と誰かが聞いて、説明する女性がおこってました。
ちゃいます!これは白い像です!
「俵屋宗達杉戸絵」
本堂のふすま、12面、杉戸8面の絵は俵屋宗達の作。
自刃した将士の霊を慰めるための「お念仏、御回向」にちなんだ絵を描いたもの。
杉戸には像や獅子、キリンなどがとてもゆたかな曲線で活き活き描かれていました。
当時無名だった俵屋宗達が認められるきっかけとなったユニークでで斬新な絵を見ることができました。特に『白象図』や『唐獅子図』は、現代の3D技術にも匹敵すると言われています。
そうえば、なんかこの白像の絵は浮き出てみえますね。濃い背景に白をもって来るという絵画の技法でしょうか?
「狩野山楽の襖絵」
玄関の左に太閤秀吉の学問所とした牡丹の間に、狩野山楽が描いた牡丹を散らした図案の襖絵はありました。生き生きと牡丹が描かれていて、絵に花の生命を吹き込む描き方ってすごい!と思わず引き込まれました。
後は「血天井」です。
養源院の今の本堂は伏見城の「中の御殿」から移築されたもの。
天井を見上げてみると、血で染められた跡があります(黒ずんだシミですが…)
この天井は「血天井」といわれているんですが、慶弔5(1600)年に徳川家の陣であった伏見城に、約4万もの兵士を引き連れてきた豊臣方の軍勢に破れて約2,000人いた徳川方の軍は380人余までになってしまいました。
伏見城を守っていた武将・鳥居元忠を筆頭に残った兵士は「中の御殿」に集まって自刃しまし、伏見城は落城しました。
その後、養源院再興の際に元忠らの菩提を弔うため、床板は天井に上げられたというのがこの血天井です。
本堂の天井では380余人兵士の血痕や、元忠が自害した場所といわれる跡がくっきりと残されています(?)本当は説明してもらわないとあまりわからないのですが、ちょっとそこまでは…
長い棒で天井を指してリアルに、ここが頭でこれが刀で…などと聞くとちょっと、ぞーでした。
他にも地天井のお寺はあるそうです。
まとめ
おすすめは、早朝がいいと聞いていましたので、朝の早くからと思っていましたが、出かけるのが遅くなって午後からになってしまいました。
本当に暑くて、暑くて。
夏の観光には絶対水はかかせませんね。
京都は少し歩くと、有名なお寺や神社に当たります。
京都国立文化博物館は洋風で、三十三間堂はもうすごい観音様像で全然違う世界、そして養源院は血天井と俵屋宗達の絵。
建築、絵、仏像、歴史、自然の中に溶け込んだ景色~京都は本当に素晴らしい!
それぞれに堪能しました。
涼しければ、あるいて清水寺までと思っていましたが、挫折しました。
また、ぼちぼち京都を歩いてみたいと思っています。
京都は見どころいっぱいです。
京都の観光に参考になれば幸いです。